2012年10月1日月曜日

死の先

風邪ひいたわ。


さて、「死の先は何か」

何があるのでしょうか。

僕自身はずっと親から死の先は「無」、それでおしまいと教えられてきました。

僕もそう思います。しかし、心のどこかであの世があると感じてしまいます。


しかし、あの世がなければ、人は何のために生きるのか。

どんなに辛い世の中でも必ず、天国、極楽浄土にいけると心の中で祈り、ある種の妄想の中で生きることは、現世での糧になると思います。

そうして宗教なり、信仰が生まれたのだと思います。

しかし、一方で死んだもの勝ち的な世界でいいのか、ということを疑問に持った哲学者もいました。

勉強不足でその辺の話はもうできないのですが(難しくて言語化できまてん)少なくとも、あの世はあるのかないのか、どっちなんだい!って話です。


結論を言うと、どっちでもいいです。人それぞれ。

俺は無い、けど、ある、という感じです…。


しかし、一つ現時点で確定して言えることは、「死後」をクローズアップしすぎることは避けたい。

死後というのは現時点では絶対認識不可能なものであり、そこに意識を充てるよりかは今の生活、生きることに執着した方がいいのではないかと考えます。

「一度きりの人生」ということをよく耳にしますが、至極妥当な表現で、死んだらおしまい、今までのすべてはパーなんです。

「お前の分までしっかり生きる」なんてできませんし、僕は口が裂けても言えません。

そんな発言するやつに限って、軽はずみな人生を送るとまで思います。


「死」とはなんなんでしょうか。



では、次の話題で。

「人はなぜ、死者を弔うのか。」

めんどくさくなってきたので次回にまわします。

もしかしたらもう書かないかもしれません。


興味のある方は僕に話しかけてください。


では。



2012年9月22日土曜日

おひさしぶり〜ん。

見てる方、ありがとうございます。

さて、本日は「死」について考えていること。



この世で絶対的なものであり、かつ、絶対的な平等である、死。

どの段階が死か、という定義は科学的、倫理的、様々にあり、それは人それぞれの選択によって定義付けするべきだと思います。

それは置いといて、今回は「死」そのものの定義。

こないだ勉強会での宿題として、


「死の何が恐怖なのか」


というお題をいただきました。

死=恐怖(恐れ、畏れ)という考え方はまあ一般的であると思います。

その精神性はどこからくるのであろうか。

僕は端的に死の非経験性が必要以上な恐怖心を増幅させるのではないか、と考えています。



少し話がそれますが、生きている間に死を定義付けすることは以前からあったことなのだろうか。

「一人称の死」というのは絶対に体験ができません。

以前では体験できない「一人称の死」を「二人称、三人称の死」で疑似体験する機会が多く存在していました。

しかし、現在では死を限りなく隔離し、疑似体験が乏しくなってきています。

そういった死の疑似体験、もっというと、名詞形の「死」ではなく、動詞形の「死ぬ」をめったに見たり、感じたりすることがなくなりました。

少なくなってきたからこそ、死の定義付けがなされ、必要以上の恐怖心を抱くようになったのではないだろうか。

「二人称、三人称の死」で喪を経験することで、死者の弔いをすることで、自然と自己の死を定義していたのが以前であったのではないだろうか。

そんなことを感じました。


長くなりそうなので、「死ぬこと」とは、「死の先にあるもの」とはについては次回気が向いたら更新しようと思います。




【最近のお気に入り】









ぐっばい。

2012年6月13日水曜日

ゆとり

お久しぶりです。

このBlog見てくれている人がいたらありがとうございます。



さて、僕は1987年生まれの最強のゆとり教育元年の世代です。

最近ではことあるごとに「ゆとり」と揶揄される世代です。

僕はこのことが納得がいきません。

理不尽極まりない冒涜。

とまでは言いませんが、かなりの理不尽さです。

「ゆとり」と馬鹿にされることも納得がいきませんが、我々の世代が自虐的に「ゆとり」だから…

と言うのも納得できません。

個人的な問題を世代の問題として矮小化し、思考停止していると感じます。



結局は若い世代を叩くいい材料として「ゆとり」が使われている。

いつの時代も若者に対して年長者は苦言を呈している。

そうか、その一種なのかと自己完結しようかとふと思いました。


因に「ゆとり教育」なるものは深い議論や検討もなされないまま改訂されました。

この先、この教育の責任は我々世代の自己責任にされ、上下の世代から「ゆとり」と叩かれ続けるのだろうと感じます。



最近(ていってもちょっと前)の好きな曲











2012年5月17日木曜日

グローバル

「グローバル」という言葉はもう見慣れた、聞き慣れた言葉になっていると思います。

グローバル化、グローバル企業、グローバルな思考、


そしてグローバルな人材。


現在の教育ではこのグローバルというキーワードを取り入れ、その人材育成が目指されています。

ではグローバル人材とは何なのか。

単に世界共通語の英語を話すことができるだけの人材ではないことは周知の事実です。

じゃあどんな人材。



これはエリートとは何なのかということと関連すると思いますが、「議論ができる人」ではないかと感じます。

まず、議論をするためには、その議題の知識を広く知る必要があります。

自分の主張、立場を明確にする必要があります。

人の話を聞き、その人や言い分の分析をし、対案や提案を論理的に示す必要があります。

以上を素早く処理できる頭の回転の速さが必要です。

そして、うまく段取りし、優先事項を決め、行動をしなければなりません。


グローバルな人材とはこういったことができる人を育成することではないかと感じています。

ビジネスする人だけに関わったことではなく、広くこうした能力を少しでも意識することは重要だと感じています。



しかし、実際こうした人材育成の考え方なんて教育では机上の空論のような気がしないでもない。




話は飛びますが、教員はよく「世界が狭い」と言われます。

果たしてそうなのか。

教員が対応する保護者はそれこそ様々な人であり、そういう意味では多くの人脈を持っていると言えます。

なぜ、「世界が狭い」といった言説が出てきたのか疑問に思う。

しかし、確かに根拠はないが、教員が「世界が狭い」と言われるだけの視野の狭さであったり、言動が目立つのは実感としてあることも事実。


教員の卵である教育学部を見ると少し見えてくるのかも知れない。

なぜか違和感というか、キラキラした感じがある。

みんな「いい子」であり、「まじめ」であり、申し分ないような「優等生」が多い。

そこに問題を見いだす僕はひねくれ過ぎなのだろうか…






2012年5月9日水曜日

初めまして

KAZです。

いろいろと思ったことを書いていこうと思います。

更新は不定期。

内容は興味のあること、感じたこと、考えたこと。




初回の今日は簡単なプロフィールを。

僕は今、教育学を学ぶ学生です。専門は経済史。

特に勉強が好きな訳でもないのですが、未だに学生をしています。

将来は学校の先生になろうと思います。

ずっとサッカーをしてきました。

たまに音楽を人前でかけてます。

基本的には怠惰な人間です。

くるもの拒まず。

常にくだらないことを考えています。

そのくだらないことを少し発信してみようと思いました。



さて、こんな感じで次回も更新しますのでよかったらのぞいてください。




最後に動画を。
Denki Groove -Niji-